2009年01月21日
今年最初の「城を歩く」は兵庫県、伊丹市の有岡城から。
JR伊丹駅の西側、有岡公園内に石垣、土塁、井戸跡などが発掘、保存されています。天守などの構造物のない、城趾です。
有岡城跡(伊丹城)
兵庫県伊丹市伊丹2丁目
南北朝時代、伊丹氏により
伊丹城として築城
天正2年(1574年)
荒木村重により改修
有岡城と改称される

有岡城石垣(上)
自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣
有岡城主だった荒木村重は波瀾万丈の生涯を送るのが常の戦国武将の中でも、特に数奇な生涯を送った武将です。
織田信長の配下として頭角を現したものの、突然、主君信長に背きここ有岡城に籠城してしまいました。信長の大軍に攻められ城は落ちますが、村重本人は、妻子も一族も見捨ててひとり逃亡、秀吉の時代まで生き延びました。(後に千利休の高弟、茶人となる)
落城後、村重の一族郎党は信長により惨殺されてしまいます。
戦国時代劇や小説には、良く取り上げられる事件なのでご存じの方も多いことでしょう。
では・・ここから新しい情報です
この荒木村重に3人の女子があり、そのうち一子は確かに信長により誅殺されますが、二子は生き延びてその片方が摂津で堀八左右衛門親季に嫁ぎました。その子堀半兵衛忠次は後に福岡黒田藩の支藩「秋月藩」に仕官し、間(あいだ)姓を名乗り、間家は代々続きます。この家系の流れを何代か下ってゆくと・・今、関東の地で写真師やってる、この僕にたどりつくのです。(僕は九州、熊本県の出身)
これは1980年頃、僕の叔父が調査し、少数ながら出版にまで至ったものを下敷きにしています。
まぁ家系というのは自分を頂点に逆三角形に、2倍ずつ増えてゆく血縁者のうち、自分にとって一番都合の良い、また見栄えの良いところのみを取り出したものです。逆に言えば都合や見栄えの悪いその他多数のことは見ない、見せないものですね。
直系ということでもなく、僅かに縁あっただけのことですが、まぁ人生の調味料くらいには感じてます・・
そんなこともあって、一度来てみたかった有岡城(i伊丹城)でした。

それから、ここ有岡城にはもう一つ有名な歴史物語があります
秀吉の参謀黒田官兵衛が村重により地下牢に幽閉され手しまうという、あの話です。
その時、瀕死の官兵衛が見つめていた、生きる希望とは・・
それについては またこんど。
じゃぁ また
JR伊丹駅の西側、有岡公園内に石垣、土塁、井戸跡などが発掘、保存されています。天守などの構造物のない、城趾です。
有岡城跡(伊丹城)
兵庫県伊丹市伊丹2丁目
南北朝時代、伊丹氏により
伊丹城として築城
天正2年(1574年)
荒木村重により改修
有岡城と改称される
有岡城石垣(上)
自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣
有岡城主だった荒木村重は波瀾万丈の生涯を送るのが常の戦国武将の中でも、特に数奇な生涯を送った武将です。
織田信長の配下として頭角を現したものの、突然、主君信長に背きここ有岡城に籠城してしまいました。信長の大軍に攻められ城は落ちますが、村重本人は、妻子も一族も見捨ててひとり逃亡、秀吉の時代まで生き延びました。(後に千利休の高弟、茶人となる)
落城後、村重の一族郎党は信長により惨殺されてしまいます。
戦国時代劇や小説には、良く取り上げられる事件なのでご存じの方も多いことでしょう。
では・・ここから新しい情報です
この荒木村重に3人の女子があり、そのうち一子は確かに信長により誅殺されますが、二子は生き延びてその片方が摂津で堀八左右衛門親季に嫁ぎました。その子堀半兵衛忠次は後に福岡黒田藩の支藩「秋月藩」に仕官し、間(あいだ)姓を名乗り、間家は代々続きます。この家系の流れを何代か下ってゆくと・・今、関東の地で写真師やってる、この僕にたどりつくのです。(僕は九州、熊本県の出身)
これは1980年頃、僕の叔父が調査し、少数ながら出版にまで至ったものを下敷きにしています。
まぁ家系というのは自分を頂点に逆三角形に、2倍ずつ増えてゆく血縁者のうち、自分にとって一番都合の良い、また見栄えの良いところのみを取り出したものです。逆に言えば都合や見栄えの悪いその他多数のことは見ない、見せないものですね。
直系ということでもなく、僅かに縁あっただけのことですが、まぁ人生の調味料くらいには感じてます・・
そんなこともあって、一度来てみたかった有岡城(i伊丹城)でした。

それから、ここ有岡城にはもう一つ有名な歴史物語があります
秀吉の参謀黒田官兵衛が村重により地下牢に幽閉され手しまうという、あの話です。
その時、瀕死の官兵衛が見つめていた、生きる希望とは・・
それについては またこんど。
じゃぁ また
(20:33)